∞ 暁務報告 ∞

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暁(あかつき)によるゴッタ煮ブログ【ぎょーむ・ほーこく】。局地的に広く中途半端に深い(笑)趣味で展開してまいります。

野間行き 付録(源義朝公最期図絵解)

以下、野間大坊での源義朝公最期図(狩野探幽)の絵解きのメモ書き。
ざっくりなので、実際に図(写し)を観ながらの絵解きををオススメ。

義朝の方はある程度知っていましたが、実はこの絵解きにおける正清(ここでは鎌田政家)の最期に驚きました。だから、義朝公廟のすぐそばに、鎌田夫妻の墓があるんですね。

▼参照
図の画像→野間行き その3(野間大坊1)
義朝公廟→野間行き その4(野間大坊2)

あ、ちなみに清盛紀行(ドラマ後に流されるもの)での野間大坊の放映は7月15日とのこと。
絵解きしてくださったお坊さんから聞きました……ていうかまあ日にちは私たちが答えたんだけど(笑)。そうそう。私たちの前にいそPさん来てらしたようです。私はうっかり見逃しちゃって残念でした。



***絵解き内容メモ***

京都六波羅において平治の乱後、源氏の総大将・源義朝公はこの美浜の地へ。
義朝公の腹心・鎌田正清の舅・長田忠致のもとへ逃げ落ちる。
長田はこの地に広大な館をかまえていた。

12月28日。
たどり着いたのは、義朝公、鎌田、渋谷の金王丸、あと2人の計5人。うち1人は母危篤とのことで去り、4人に。

長田、お目見えようこそとご挨拶。山海の珍味を用意、丁重なおもてなし。
だがそのうち息子を呼び寄せ、義朝公は源氏の総大将とはいえ、今は3人しか家来を連れていない。早晩、誰かに首を取られてしまうだろう。ならばわしらが首をとろう、ということで、義朝公を討つことに。

まずは腹心の鎌田をなんとかせねばならぬ、ということで年が明け1月2日。
鎌田を呼んでしきりに酒をすすめる。妻の舅と義兄がまさかこんな恐ろしいことを考えているとは思いもよらず酒を飲み、やがてこれにてお暇、と部屋から出たところを、義兄に膝から下をバッサリと斬られ、この場で無残な最期を遂げる。
(絵解きにその様子が描かれています…orz)

鎌田の妻は、父と兄によって最愛の夫を殺されたことに嘆き、恨み、夫から短刀をとり、喉を突いて後を追った。
亡き夫へのお詫び、父と兄の恐ろしい主殺しの罪をいさめるため。
けれど、長田親子ははかりごとをやめない。

翌1月3日。
鎌田の最期を知らぬまま、朝風呂をすすめられ、喜んで風呂に入った義朝公。
ところが着替えの浴衣が見当たらない。そこで憤慨しつつ金王丸が1キロ離れた長田の本邸まで浴衣を取りに行くことに。
(とにかくデカい、長田邸は!)

かねてからの計略で、風呂の軒下から長田の家来が飛び出し、義朝公に襲いかかる。
はじめのうちは義朝公も強く闘っていたけれど、丸裸のまま何人もの郎党に攻撃され、やがて力尽き、38歳にて無念の最期。
断末魔のひとこと。
「無念!せめて我に木の太刀一本でもあれば、かかる下郎にむざむざ討たれはせん!」
以来、木の太刀を奉納するならわしができた。

義朝公の首は裏山に。
金王丸が浴衣を持って帰ってくると、首のない義朝公の無残な姿。急いで馬に乗り、もう一人の家臣とともに京都へと向かう。平清盛のもとへ持って行ったに違いないと追いかける。
彼らが去った後、長田親子は裏山から戻り、義朝公の御首を小さな池で洗った。
それが血の池。変事のときは池の水の色が変わるとのこと。

#渋谷の金王丸は東京・渋谷にある金王八幡宮にて祀られている。

清盛公はたいへん喜ばれたが、息子の重盛公は、このような主殺しにそうそう褒美を与えてはいけないということで、長田親子にわずかに壱岐守(いきのかみ)を与えた。
さてその後、頼朝公が征夷大将軍となって鎌倉幕府をひらき、義朝公の盛大な大法要がおこなわれた。

長田親子はその後、美濃や尾張を与えられたものの、主殺しにより板張りつけ。刀で斬っては武士の命がけがれると、こん棒で撲殺された図。
その長田が残した辞世の句。
「ながらえて 命ばかりは いきのかみ<壱岐守> みのおわり<美濃尾張>をば いまぞ たまわる」

江戸時代、尾張藩主が狩野探幽に描かせた絵。
そのころからのお絵解き台本が脈々と伝わり、現在に至る。

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以上でございます。
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by gyohm | 2012-06-15 21:00 | ドラマ